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  • 2016.12.24 Saturday
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バルセロナValid foto展示の新聞記事

Valid fotoでの展示が終了しました。
経済状態が今、とても悪いスペインの状況の中ではとても良く販売してくださったと思います。画廊の皆様また、購入くださった方々に深く感謝申し上げます。
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バルセロナ
[記事の翻訳]

山本昌男の芸術作品は写真で表現された詩であり、日本独特の、現実や存在のとらえ方や、おぼろげな美の感性が表現されているのですが、日本人に限らず、誰にでもそれが理解できる作品となっている。

この写真家のビジョンは伝統に忠実でありながら、個性もあり、現代的である。わびさびの美学が彼の基本のひとつであり、調和の中での不完全さや不均整さが尊重され、未完成さやはかなさの中の美を認識する、さりげなさの美学なのです。時間の経過や、自然のプロセスと変化の跡、そして飾らない素朴さとさりげなさの表現は、古い寺で長年使用されてすり減った木材や、人物や物が写っているか否かにかかわらずどの風景写真にも見られる山本昌男氏の作品の特徴なのです。

革新的である以上に独創的なこれらの写真には、伝統的な日本文化の精神的、感覚的な宝となる要素がすべて含まれています。第一に、人間とその存在を含み、全てのもののはかなさを認識し冷静に受け入れる自然に対する称賛です。そして第二に、常にさりげない表現です。詩人のジュセッペ・ウンガレッティが“時間の感情”と呼んでいたものです。

日本の最高峰の作品において、時間の経過というのは常に考えられてきたテーマであり、根本的なテーマとしてよく使用されます。小林一茶の俳句、山本正文氏(山本昌男氏と血縁関係はない)の版画、小津安二郎監督の映画にもみられるテーマなのです。古代ギリシャで形成された西洋の伝統的な美学に比べると、日本の洞察力の方が現実的で奥深く、明快である上、より崇高なのです。理想主義的な自己欺瞞に陥ることなく、そして明快さ、つまり最悪や最高を認識する能力を放棄することなく、崇高なものに近づいているのです。実際のところ、美学である以上に、世界を理解し思い描く方法のひとつであり、芸術的な方法で表現される哲学なのです。

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記事も丁寧に書かれていてありがたいです。

今回の記事で私が特に注目したのが、「日本独特の美の感性が、日本人のみならず誰でも理解できる作品になっている」と書かれている点です。山本はもともと初期の「空の箱」シリーズに取り組んでいた頃は、海外はおろか国内市場も意識せずに、それこそ”自由”に自分の好きな世界を創っていました。ましてや自らの精神的背景である日本文化もまったく意識していなかった...ということを白状します。それなのに、なぜか発表してすぐにU.S.の市場で受け入れられました。後からの分析では、欧米人が日本の美学とはこういう物ではないか?と想像するイメージに、山本作品が見事に合致してしまったということらしいです。世界のMURAKAMIは、戦略的に日本の伝統的なモチーフを現代の人々にわかるように表現し直すことで、成功しました。山本の場合にはMURAKAMIのようには意識しなかったのに、日本の美意識を紹介する事ができてしまったようです。(必ずしも日本人が理解されたいように欧米人に理解されているかは別問題として)

あまりにも美術作品が売れなく、美術市場が確立されていない日本で活動するアーティスト達が良く言います。「私たちは市場に媚びたく無い、世の中の流行は常に変わるし、最近は特にそのスピードが早い、だから市場を意識するのは無意味である、アートは限りなく自由だからこそ存在意義がある」

確かに美は崇高なもので、売れる売れないを意識したら、別もので、本当に伝えたいものとは違ってしまう....という恐れもわからないことはないのですが、

自分の自由なやり方で作ったものが、誰にも見向きもされなかったら...そちらの方が作品を作っている意味を見いだす事が難しいのではないでしょうか?

美術作品や芸術とは、そんなに単純な物ではないと思います。

一見、矛盾する「売れることを意識した作品」と「アーティストの魂が籠った作品」ですが、

その両方の要素を同時にクリアする作品を創る事ができないと「アーティスト」とは名乗れないのではないでしょうか。換金されるという事に、何か汚い物というイメージを持ってしまう日本人が多いように感じますが、ただ口で「この作品は素晴らしい」と言う事は誰にでもできますが、身銭を切ってまで購入するとなると、本当に心を動かされていないとできない行為だと思います。買うかどうかという事は好きの度合いのバロメータになるでしょう。

山奥に籠って誰にも見せることなく自分の為に製作する、という方法もあるとは思いますが、私も絵を書いていた事があるので、わかりますが、時々は他人の共感を得ないと製作は長続きしないものです。

人に見てもらう為には、人にわかってもらう”工夫”分かり易くする戦略を建てる事も必要ではないでしょうか?”アートは自由”という言葉は便利ですが、それが険しい表現者の道に本気で踏み出せない人々の言い訳に使われている現状があると感じています。

歌舞伎役者の玉三郎が佐渡の鼓童の芸術監督として "打男”を演出した際に言っていました。「表面は必ず上品でなくちゃね、イヤなのよ...でもその内側に色んな人間のドロドロした想いや、複雑なものも内包して...」

芯の部分にもちろん制作者の哲学がなければ、作品は匂っては来ないと思います。匂いが無いものには誰も見向きもしません。

その表したいものを今に生きる人に分かり易く作る努力をしなければ....ただの自己満足でしかない作品になってしまうことは明らかでしょう。

作品を表出するフィニッシュワークを人々に分かり易く仕立てる事で、自らの哲学が消えてしまうようでは、もとから自分には何もなかった...という事を認めざるを得ません。

朗子さんと良く話します。「全ての職業は、サービス業だよね....」と。

最近、本当にその言葉を実感しています。人は社会でしか生きられない、人との関係の中で存在するものだとすると....人に喜ばれるものを作る事が作る本人にも喜びとなり善き循環が育まれると信じています。






新聞に掲載された展評 Two newspaper reviews from European shows

この両方の展覧会は供に、以前取り組んでいた”インスタレーション”の作品と、今、取り組んでいる”川”という作品の両方を展示している。
フライブルクの方は、インスタレーションに関しての評論が中心で、逆にミラノの方は川に対して述べている。
以前取り組んでいたインスタレーション作品の人気もまだまだ高く展示の要望も多いので、川とともに展示することもある。
”山本インスタレーション”は小さな写真を壁というキャンバスに絵を書くように貼っていくというもの。初めて見る人にとっては「写真をこんな風に展示するとは!」という驚きがあるらしい....写真と写真の組み合わせによって1+1=5になってみたりと違う世界が表出されることがこの作品の極意なのですが、多くの方々は写真の展示方法の奇抜さと、見た目の美しさに魅かれ、その先の”内容”にまではなかなか辿り着いてくださらなかった。
これは鑑賞者の見る力のせいではなく、山本自身が自分の作品コンセプトの甘さから来ることを自覚し、川への旅に漕ぎだした......
昨年から序々にではあるが、川への評価も出てきたようだ。
パッと見には、なんの変哲も無いモノクロの風景写真、そこでじっくりとゆっくりと見てもらえれば、その先の普遍的な何かが伝わってくる...というスルメのような作品群であると思う。
ミラノの展評で、ムーティー氏から川に対するコメントをいただけたのは貴重な第一歩といえよう。
ネット、メールの普及により便利なのは良いが、なんでもスピードが早くなって、見てすぐに分かるものでないとなかなか人々に受け入れられない世の中になってきているような気もします.....

Two newspaper reviews from European shows

With these two shows, I exhibited both my early “Installation” work and the current KAWA=Flow series.  The first article, a review on Freiburg show, is mainly on the installation pieces, and the other article from Milan is on the Kawa series.

My installation works are still quite popular among galleries and I often get a request to show them along with my new work.  “Yamamoto Installation” is like painting on a canvas with small photographs.  Here the canvas is of course a gallery wall.  Some people are surprised to see this as a new way of photographic installation. People seem to be attracted to the uniqueness and the beauty of the installation itself.  I somehow felt I was not being able to communicate the ”content” of my work which lies beyond the surface beauty. I am not blaming this on the viewers, of course. My concept may have been a bit vague, and I decided to row a boat into the river with the Kawa series.  I am happy that the new Kawa series is getting more recognition since last year.

I think my Kawa works are like beef jerky. They may look like ordinary black and white landscapes, but as you spend more time on them, they bring about some universal feelings.

I am happy to  receive a comment on the Kawa work from Mr. Mutti. I hope this will be a beginning for me in Milan. We live in this fast world of Internet and e-mails, and it is getting harder for people to accept art unless it is quick to understand.


Here are some extracts from the reviews:




2009年11月のフライブルク、GALERIE BAUMGARTENでの展示
Yamamoto Masao at Galerie Baumgarten, Freiburg, November 2009


山本昌男展 Gallery Baumgartenにて

Badische Zeitung 17.Nov.2009

高みにある斑


BAUMGARTEN09展示評

(翻訳の一部抜粋)

彼は、写真家としての姿勢としてあるパラドックスを例にして説明している。“積極的受動性”であるという。おそらくこれは、すべての偶然に起こった小さな物事へのある種の覚醒、冷静な注意力であろう。時に写真上に、ただただ小さななにかが写っている。例えば鳥だったり。この鳥はもしかしたらただの単なるしみのようなものかもしれない、あるいは上空を飛ぶ飛行機かもしれない。暗黙の中にわずかながら意味的な重量感がある。それは、投げられた小石が水面につくる輪、そして水面に写る森の暗いシルエットを写した別の大きめの写真のものと変わりがない。それらの重量感というのは我々にも正体がわからないものである。まるで伸びた手の中にあるが、しっかりと掴まれていない鳥の写真のように、写真家が彼のモチーフに固執してないような感覚である。

(extract)
Yamamoto explains his work using a paradox of“Passive-Aggressiveness.”  It is an awakening and calm attention to small events that happen around us at random. For example, a very small bird-like object appears at the top of a photograph.  It may be a bird or an airplane. It may be just a smudge on the paper. In the darkness of his photographs, you feel a slight presence of a weight.  It may be ripples a stone made in a pond, or maybe a dark silhouette of a forest cast on the surface of the water.  We will never find out what this sense of weight is. It’s like a bird almost caught in an extended hand.  After all, the artist may not even have an attachment to his subject matters.



2010年2月13日までのミラノでの展示

Milan exhibition, through Feb. 13th, 2010


大小の仏教写真

ロベルトムーティ

Small and Big “Buddhism” Photographs

By Roberto Mutti 


WP展示評論


静寂の中で、洗練された写真を味わえる写真展。あえてそのような指示はないが、広々とした Lorenzelli Arteの画廊空間に入ると自然にそうなる。50歳の山本がその卓越した繊細美を提示する。展覧会のタイトル「川」も見るものに注意と尊重を促す。まさに評価に値すべきは、近年の写真作品の巨大化が進む中、山本はそれを無視して最大20x30センチ程度の写真で勝負する。最初の空間では空に放たれたようなイメージを提示し、二つ目の空間には写真が川のように壁を流れる。この方法で、白黒写真のすばらしい品質を通して詩的要素の強い自然を余すところなく表現している。若干の波のある海面、空を飛ぶ鶴、山々を覆う雲、尊大な鷲のまなざし。ミニマルというより、対象物とそれを取り巻く空白を仏教界のヴィジョンを通して表現しているといったほうが適当であろう。

A sophisticated photography show presented in silence –   Although it is not said, this is how you feel as you enter the vast exhibition space of Lorenzelli Arte.  Yamamoto, 50 years of age, is exhibiting his excellently delicate art in this space.  The title of the show, KAWA, also invites viewers to think and wonder. Art has been getting larger and larger in size in recent years.  Yamamoto, however, ignores this trend and chooses to express himself in a small space of 20cmX30cm at largest.  The first space shows an image wide open to the sky; the second space represents a river that flows on the wall in forms of photographs.  He is expressing a poetic nature through his beautiful black and white prints.  Ocean with subtle waves, a soaring crane, cloud covered mountains, an arrogant gaze of an eagle… Rather than calling them minimal, it is more suitable to say these photographs are the expression of objects and their surrounding spaces through a vision of Buddhism.



 

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