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バルセロナValid foto展示の新聞記事

Valid fotoでの展示が終了しました。
経済状態が今、とても悪いスペインの状況の中ではとても良く販売してくださったと思います。画廊の皆様また、購入くださった方々に深く感謝申し上げます。
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バルセロナ
[記事の翻訳]

山本昌男の芸術作品は写真で表現された詩であり、日本独特の、現実や存在のとらえ方や、おぼろげな美の感性が表現されているのですが、日本人に限らず、誰にでもそれが理解できる作品となっている。

この写真家のビジョンは伝統に忠実でありながら、個性もあり、現代的である。わびさびの美学が彼の基本のひとつであり、調和の中での不完全さや不均整さが尊重され、未完成さやはかなさの中の美を認識する、さりげなさの美学なのです。時間の経過や、自然のプロセスと変化の跡、そして飾らない素朴さとさりげなさの表現は、古い寺で長年使用されてすり減った木材や、人物や物が写っているか否かにかかわらずどの風景写真にも見られる山本昌男氏の作品の特徴なのです。

革新的である以上に独創的なこれらの写真には、伝統的な日本文化の精神的、感覚的な宝となる要素がすべて含まれています。第一に、人間とその存在を含み、全てのもののはかなさを認識し冷静に受け入れる自然に対する称賛です。そして第二に、常にさりげない表現です。詩人のジュセッペ・ウンガレッティが“時間の感情”と呼んでいたものです。

日本の最高峰の作品において、時間の経過というのは常に考えられてきたテーマであり、根本的なテーマとしてよく使用されます。小林一茶の俳句、山本正文氏(山本昌男氏と血縁関係はない)の版画、小津安二郎監督の映画にもみられるテーマなのです。古代ギリシャで形成された西洋の伝統的な美学に比べると、日本の洞察力の方が現実的で奥深く、明快である上、より崇高なのです。理想主義的な自己欺瞞に陥ることなく、そして明快さ、つまり最悪や最高を認識する能力を放棄することなく、崇高なものに近づいているのです。実際のところ、美学である以上に、世界を理解し思い描く方法のひとつであり、芸術的な方法で表現される哲学なのです。

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記事も丁寧に書かれていてありがたいです。

今回の記事で私が特に注目したのが、「日本独特の美の感性が、日本人のみならず誰でも理解できる作品になっている」と書かれている点です。山本はもともと初期の「空の箱」シリーズに取り組んでいた頃は、海外はおろか国内市場も意識せずに、それこそ”自由”に自分の好きな世界を創っていました。ましてや自らの精神的背景である日本文化もまったく意識していなかった...ということを白状します。それなのに、なぜか発表してすぐにU.S.の市場で受け入れられました。後からの分析では、欧米人が日本の美学とはこういう物ではないか?と想像するイメージに、山本作品が見事に合致してしまったということらしいです。世界のMURAKAMIは、戦略的に日本の伝統的なモチーフを現代の人々にわかるように表現し直すことで、成功しました。山本の場合にはMURAKAMIのようには意識しなかったのに、日本の美意識を紹介する事ができてしまったようです。(必ずしも日本人が理解されたいように欧米人に理解されているかは別問題として)

あまりにも美術作品が売れなく、美術市場が確立されていない日本で活動するアーティスト達が良く言います。「私たちは市場に媚びたく無い、世の中の流行は常に変わるし、最近は特にそのスピードが早い、だから市場を意識するのは無意味である、アートは限りなく自由だからこそ存在意義がある」

確かに美は崇高なもので、売れる売れないを意識したら、別もので、本当に伝えたいものとは違ってしまう....という恐れもわからないことはないのですが、

自分の自由なやり方で作ったものが、誰にも見向きもされなかったら...そちらの方が作品を作っている意味を見いだす事が難しいのではないでしょうか?

美術作品や芸術とは、そんなに単純な物ではないと思います。

一見、矛盾する「売れることを意識した作品」と「アーティストの魂が籠った作品」ですが、

その両方の要素を同時にクリアする作品を創る事ができないと「アーティスト」とは名乗れないのではないでしょうか。換金されるという事に、何か汚い物というイメージを持ってしまう日本人が多いように感じますが、ただ口で「この作品は素晴らしい」と言う事は誰にでもできますが、身銭を切ってまで購入するとなると、本当に心を動かされていないとできない行為だと思います。買うかどうかという事は好きの度合いのバロメータになるでしょう。

山奥に籠って誰にも見せることなく自分の為に製作する、という方法もあるとは思いますが、私も絵を書いていた事があるので、わかりますが、時々は他人の共感を得ないと製作は長続きしないものです。

人に見てもらう為には、人にわかってもらう”工夫”分かり易くする戦略を建てる事も必要ではないでしょうか?”アートは自由”という言葉は便利ですが、それが険しい表現者の道に本気で踏み出せない人々の言い訳に使われている現状があると感じています。

歌舞伎役者の玉三郎が佐渡の鼓童の芸術監督として "打男”を演出した際に言っていました。「表面は必ず上品でなくちゃね、イヤなのよ...でもその内側に色んな人間のドロドロした想いや、複雑なものも内包して...」

芯の部分にもちろん制作者の哲学がなければ、作品は匂っては来ないと思います。匂いが無いものには誰も見向きもしません。

その表したいものを今に生きる人に分かり易く作る努力をしなければ....ただの自己満足でしかない作品になってしまうことは明らかでしょう。

作品を表出するフィニッシュワークを人々に分かり易く仕立てる事で、自らの哲学が消えてしまうようでは、もとから自分には何もなかった...という事を認めざるを得ません。

朗子さんと良く話します。「全ての職業は、サービス業だよね....」と。

最近、本当にその言葉を実感しています。人は社会でしか生きられない、人との関係の中で存在するものだとすると....人に喜ばれるものを作る事が作る本人にも喜びとなり善き循環が育まれると信じています。






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